父が施設に入所しました。
春の嵐ですか?
人気が少なく、こういう雨の日の外出は好きなのですが、今日は、折角のお休みなのだから、日記でも書こう。
昨日、いつも行く台湾系の中華屋さんにランチへ行くと、珍しく6人組の宴会が入っていて、店主やバイトの若いオニイサンが、非常に忙しく働いていて、少しホッとした。
“良かったですね!♪”と、店主さんに声かけたけれど、”偶々ね。。。”なんて、答えが返ってきた。
その答えからして、いつもはやはり、そんな忙しくはないのだろうな。
とても美味しくて量もたっぷりの、まさに貧者の味方みたいなランチのお店なので、頑張ってくれないと困る(><)なんて、あくまで自分の都合で、応援しているけど、いや、本当、この不景気感、どうにかしてよ〜〜って思う。
真面目に頑張っている人たちには、生き延びて欲しい、と、混じり気なしに思うのであった。
ところで、父が老人施設に入所しました。いや、やっと入所出来たと、言って良いのかもしれない。
やはり、独居、というのが一番のポイントだったと思う。
わたしと姉が唯一の残された直接の身内だけれど、2人とも高校卒業を期に実家は出ていて、その後大都市部を拠点として生活。
あらゆる面から考慮して、実家に戻る事は、現実的ではない。
わたしも姉も、父親という人にはほとほと困り果てていたのだ。
老親の介護に因って起こる悲劇の例を挙げれば、枚挙に暇が無いであろう。
わたしはそれに関する記事を出来る限り読み、研究をした。
わたしたちは、どうしてもそれを避けたかったので、母の死後、5年半は、それぞれ交代で、遠い故郷の父の家に約3カ月に一度の頻度で、通い続けた。
行政の審査も、要支援から要介護へと変わった。
元々は支援も何もなかったが、あれよあれよという間に、要支援、要介護と変わり、まるで坂道を転がるようだった。
父はあくまでも、自分の家で暮らすことに、執着していた。
いや、入居している今だって、そうに違いないのだ。
わたしたちはいつも、厳寒の地での冬の生活を心配していた。
色々たくさんの不便さや故障があろうとも、ヘルパーさんも1人良い男性がいて、来ていてくれていたから、春夏秋の間は心配が少なかったのだったのだが、冬の訪れには敵わなかった。
無慈悲な冬将軍は命ある者も無い物も、あらゆるものを凍らせる。
と、まで書いてから、マルシャークの古いロシアのお話、”森は生きている”を、思い出した。
無慈悲な雪と氷の世界と、優しく親切な12の月の兄弟たち。
子供の頃母に絵本を読んでもらい、冷たい雪の中で凍える継母と姉たちの描写には、ぞっとしたのだった。
もしかしたら、あれがわたしにとっての初めてのホラー体験なのかも知れない。
話は戻って、父にとって、たった1人の5度目の冬、それは起きた。
水道が凍結したのだ。
それ自体は毎冬の事で、必ず起きる事なのだが、今回は色々と不具合が重なった。
本人はいつも通りに、自分や知り合いに頼んだりして修理して過ごすつもりだったが、ケアマネさんが、その状況を見てお役所の担当者の判断を仰ぎ、 « 生命の危険性がある »との結論に至り、老人施設へのショートステイが、即決されたのだ。
そしてショートステイから、正式な入居までには、それほどの時間はかからなかった。
わたしも姉も、まさかこういう展開になろうとは予想だにしていなかった。
父もいつまでも自分の家で暮らす事に拘り、わたしと姉も今の自分の人生を守る為に踏ん張り続けた。
どこまで続くか根比べ、だった。
益々高齢者の増えるこの国。
自分もどんどんと歳を取って行き不自由になってゆく。
今回の父に起きた件は、他人事ではなく、高齢者多き社会の好例として捉えて貰いたいと、この日記を書きました。
父のような極端な性格の人は、滅多にいないだろうとは思いますが。
わたしたちは今、心配から解放されて一段落着いてますが、コロナ禍の中、施設の父の訪問は禁止されているという状況です。
別な話しですが、何も老人の訪問だけではなく、首都圏で暮らす若者等が、故郷の親の家へ帰れないという問題は続いていて、話を聞くだに、それはキツいんだろうなぁ、と思う。
わたしは父を訪ねる事は出来なくとも、繁忙期終了後には故郷に帰るつもりです。
正直、父が居ない今、自由に家の中を片付けたり、探索したり出来るのは、ちょっとした楽しみです♪
キャンプ気分で帰ってみようかな、と。
山菜とか、楽しみ♪